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国際平和拠点ひろしま

Leaning from Hiroshima’s Reconstruction Experience: Reborn from the Ashes vol4Ⅲ 計画の実現に向けて

1948年(昭和23年)になり,計画は実現に向けて動き始める。終戦直後からシュモ一氏は救援活動を行うため,日本行きの許可を求めていたが,被爆から3年後の夏にようやく認められたのだ。個人での支援活動の許可は得ることができず,ララ(LARA)に加わり,日本を訪れることになった11。ララというのは,アジア救援公認団体の略称であり,アメリカのフレンズ奉仕団やプロテスタント,カトリックの宗教団体など十数団体が中心となり1946年から日本への援助活動を行っていた。アメリカやカナダ,アルゼンチンやペルーなどの国の個人やグループから寄付された食糧・衣類・医薬品など人々の生活を支えるさまざまな物資が,船で横浜港へ運ばれた。物資は海外の人たちと日本人から構成されるララ救援物資中央委員会と厚生省(現在の厚生労働省)が連携し,割り当てや配分を取り決め,各都道府県へ送付された12。原爆の被害を受けた広島・長崎は,東京や大阪の大都市と共に早急な配給を必要とする地域と考えられ,1946年のララによる活動の始まりから援助を受けた13。広島市内の本川小学校には,ララ物資として届けられた衣類を受け取って喜ぶ子どもたちの写真が所蔵されている。衣類は日本人向けに補正されることもあった。ララによる支援は,1952年(昭和27年)まで続き,その年の3月31日までに約1万6,000トン,総額400億円以上の物資が届けられ,1千数百万人以上が恩恵を受けたと言われている14。

シュモー氏は,病院や孤児たちに食糧や衣類を届けた15。来日する時にはへイファーズ救済委員会が行っていた支援に協力し,アメリカからヤギを連れて来ている16。1949年の終わりまでに,アメリカのヘイファーズ救済委員会はミルクの提供と増産,畜産の発展のために約2,000頭のヤギと70頭を超える牛を日本へ届けていた17。

シュモー氏は救援活動に従事するだけでなく,広島を訪問し,関係者に「広島の家」の計画について話した。その際,広島市長をはじめ関係者から協力を得ることができると感じた18。広島市長,広島県知事,占領軍当局が計画について協力を約束したと記された資料もある19。合わせて広島の状況も観察した。街は原爆により焼き尽くされ,市内の建物の90パーセント以上に被害が及び20,多くの人々が亡くなっていた。生き残った市民は焼け跡のトタンや廃材を集め自力でバラックを建てるしかなかった。1946年8月現在で市内の約3万7,000戸のうち約1万2,000戸がバラックという報告がある21。衣食住の問題のうち,住宅の不足は食と衣の問題が改善され始めた後も続いていた。シュモー氏が広島で住宅の建設を始める昭和24年度の市勢要覧には1万6,000戸の住居の不足が想定され,4月には,広島市主催による公開討論会で「住宅問題をどうするか」というテーマで議論が交わされた22。まさに住宅の提供は緊急を要する課題だったのである。シュモー氏は日本家屋を建てることは初めてとなるため,じっくりとその様式を観察している23。計画の実現に向けて,しっかりとした土台づくりを行っていた。

アメリカへ帰国したシュモー氏は,広島での家づくりに向けて準備を進める。まず資金集めである。募金を呼びかけた文書を見ると,4,000ドルを集めることを目標にしている。3,000ドルを日本で資材を購入するための資金,残りの1,000ドルはアメリカからの旅費と食費に充て,一度に全額集めるのではなく,今後4カ月で徐々に資金集めの運動を広げていくことを考えている。また文書には日本側でこの計画を支持する広島県知事や広島市長などの談話も掲載されていた24。シュモー氏とつながりの深い太平洋フレンズ奉仕団や日本フレンズ奉仕団の支援もあったが,資金集めの計画はシュモ一氏個人の役割が大きかった。毎年クリスマスカードを送る友人たちに広島で家を建設する目的を書いた手紙を送り,寄付を呼びかけることも行った25。最終的に当初の4,000ドルを超える4,300ドルがアメリカのほとんどの州とアラスカやハワイ(当時はアメリカの州に加わっていない),メキシコ,カナダ,フランス,プエルトリコ,中国,日本から集まった26。4,300ドルは,1949年当時の日本円では154万8,000円にあたる。労働者の平均給与が月額6,902円(1949年8月)という時代であった27。

実際に広島へ行き,家づくりを行うメンバーは,シュモ一氏自身の他,エメリー・アンドリュース氏,デイジー・ティブズ氏,ルース・ジェンキンズ氏の3名を選んだ。3人とも,第二次世界大戦中,シュモー氏と共に日系アメリカ人の支援活動に携わっていた。アンドリュース氏は,ワシントン州シアトルの日本人バプティスト教会牧師であり,シュモー氏よりも1歳年上であった。シュモー氏は,戦争中,共に協力しあいながら活動を行ってきた同氏を信頼し,「広島の家」の計画を行う上で最初に頭に浮かんだ人物だった。アンドリュース氏が広島に赴くために必要な旅費と食費700ドルの募金も呼び掛けている28。アンドリュース氏は,シュモー氏が来日しなかった1951年には,活動のリーダー的な役割を担った。

ティブズ氏は,黒人の女性でアメリカ・サウスカロライナ州のハービンソン大学の教職員であった。シュモー氏から「広島の家」の活動への参加の呼びかけが記されたクリスマスカードを受け取り,「現実離れした途方もない計画のように思い,ためらいはありましたが,広島に行くことを承諾しました29。」と語っている。

ジェンキンズ氏は,赤髪で長身の女性でアメリカ・アリゾナ州の小学校の教師であった。ヨーロッパでのフレンズ奉仕団の支援活動に携わった経験もあった30。

日本へ入るためには占領軍からの許可が必要なため,シュモー氏はこの3人に対して,フレンズ奉仕団の日本での活動に協力して短期間滞在することや滞在期間を4カ月とするなど申請書の書き方を助言している31。申請の結果,アンドリュース氏の場合,1949年7月5日付で軍から宣教の目的で7月31日から9月30日の2カ月間,日本へ赴くことが許可された32。

現地での作業をスムーズに行うため,広島県・市とは何度か書簡を交わし,交渉を進めた。1949年4月5日付の広島県からシュモー氏に宛てた書簡では,県と市が支援の申し出に感謝し,計画実現のために協力することを伝えている。さらにこの計画が住宅の提供という物質的な援助だけでなくアメリカと日本の関係を再構築する点も理解していた33。計画が具体化していく中で,県と市から児童図書館の建設についての提案もあった。住宅を建設した場合,広島では1万人を超える人々が住宅を必要な状況であり,シュモー氏たちが建てた家に住むことができる人は,ほんのわずかとなるためであった34。これに対して6月30日付の濱井広島市長への書簡の中で,シュモー氏は広島で多くの人々が住宅を必要としていることを理解し,市の提案を受け入れることを伝えている。また,この書簡の中では,15坪の建物を建てることを計画し,引き戸に使用するガラスやくぎ,水道のための銅管,電気配線のための銅線などの資材は持参し,木材は広島で購入することが記されてあった。木材については到着後の手配では乾燥に時間が必要となることを聞き,建設スケジュールが厳しくなるため事前に発注してくれるよう求めていた。日本へ到着する具体的な日付も伝えられた35。

シュモー氏たちの広島での活動が実現する日が近づきつつあった。


11 Floyd Schmoe,“A HOUSE FOR HIROSHIMA,” Floyd W. Schmoe Papers, 1903-1993, The University of Washington Libraries, Special Collections, Accession No.0496-008, Box12, Folder1
12 全国福祉協議会 『ララ記念誌』 1996年 92-94頁
13 竹前栄治・中村隆英監修 菅沼 隆解説・訳 『GHQ日本占領史 第23巻 社会福祉』 日本図書センター 1998年 115-118頁
14 全国福祉協議会 『ララ記念誌』 1996年 261頁 
15 Floyd Schmoe,“A HOUSE FOR HIROSHIMA,″Floyd W. Schmoe Papers, 1903-1993, The University of Washington Libraries, Special Collections, Accession No.0496-008,Box12, Folder1.
16 Ferner Nuhn,“HE WANTED TO BUILD HOUSES FOR HIROSHIMA,” Floyd W. Schmoe Papers, 1903-1993, The University of Washington Libraries, Special Collections, Accession No.0496-008, Box13, Folder1.
この資料によれば,シュモー氏は, 250頭ものヤギを日本へ連れて来たと記されている。
17 竹前栄治・中村隆英監修 菅沼 隆解説・訳 『GHQ日本占領史 第23巻 社会福祉』日本図書センター 1998年 118頁
18 Letter from Floyd Schmoe to Emery Andrews, January 24, 1949, Emery E. Andrews papers, 1925-1959, The University of Washington Libraries, Special Collections, Accession No.1908-001, Box1, Folder15.
19 Alice Frartklin Bryant,“A HOUSE FOR HIROSHIMA,” May 20, 1951, Floyd W. Schmoe Papers, 1903-1993,The University of Washington Libraries, Special Collections, Accession No.0496-008, Box13, Folder9.
20 広島市 『市勢要覧(復興第一年号)昭和二十一年版』1947年 57頁-58頁
21 広島市編 『広島新史 市民生活編』1983年 56頁
22 広島市編 『広島新史 市民生活編』1983年 60頁
23 Letter from Floyd Schmoe to Ruth Jenkins, January 9, 1949, Emery E. Andrews papers, 1925-1959, The University of Washington Libraries, Special Collections, Accession No.1908-001, Box1, Folder15.
24 “FOR THE HOUSE FOR HIROSHIMA,”Emery E. Andrews papers, 1925-1959, The University of Washington Libraries, Special Collections, Accession No.1908-001, Box4 Folder8.
25 Floyd Schmoe interview, 1989, Collection of American Friends Service Commitee.
26 Letter from Floyd Schmoe to Miss Thompson, September 14, 1949, Floyd W. Schmoe Papers, 1903-1993, The University of Washington Libraries, Special Collections, Accession No.0496-008, Box12, Folder16.
27 広島市 『市勢要覧 広島平和祈念都市建設法制定記念号 昭和二十四年(1949年)版』1950年 78頁 
28 Letter from Floyd Schmoe to friends, April 23, 1949, Emery E. Andrews papers, 1925-1959, The University of Washington Libraries, Special Collections, Accession No.1908-001, Box4, Folder8.
29 デイジー・ティブズ氏の証言 2012年 シュモーハウス展示「広島の家」の建設に参加した人たち
30 Letter from Floyd Schmoe to Emery Andrews, Daisy Tibbs and Ruth Jenkins, June 10, 1949, Emery E. Andrews papers, 1925-1959, The University of Washington Libraries, Special Collections, Accession No.1908-001, Box4, Folder8.
31 Letter from Floyd Schmoe to Emery Andrews, Daisy Tibbs and Ruth Jenkins, June 10, 1949, Emery E. Andrews papers, 1925-1959, The University of Washington Libraries, Special Collections, Accession No.1908-001, Box4, Folder8.
32 “Emery E. Andrews Diary” ブルックス・アンドリュース氏寄贈 広島平和記念資料館所蔵
33 Letter from Floyd Schmoe to Yoshinobu Kono, April 5, 1949, Floyd W. Schmoe Papers, 1903-1993, The University of Washington Libraries, Special Collections, Accession No.0496-008, Box12, Folder7.
34 Letter from Tsunei Kusunose and Shinzo Hamai to Floyd Schmoe June 20,1949, Floyd W. Schmoe Papers, 1903-1993, The University of Washington Libraries, Special Collections, Accession No.0496-008, Box12, Folder7.
35 Letter from Floyd Schmoe to Shinzo Hamai, June 30, 1949, Floyd W. Schmoe Papers, 1903-1993, The University of Washington Libraries, Special Collections, Accession No.0496-008, Box12, Folder7. 

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