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国際平和拠点ひろしま

Leaning from Hiroshima’s Reconstruction Experience: Reborn from the Ashes vol4V 新しい試み

1 モデルハウス

 翌1950年(昭和25年)の夏も再び,シュモー氏たちは広島を訪れた。前年よりも2カ月早く6月18日に広島へ到着。来日するメンバーは変わり,シア卜ルの職業学校教師の黒人女性マリタ・ジョンソン氏が活動に加わった69。日本人のボランティアの中には,2年続けて参加する人たちもいた。この年は,世界中の500人から1万ドル以上の募金が集まった。その中には日本へ向かう船内で,シュモー氏たちの考えに共感した日系人やフィリピン人,中国人から寄せられた募金も含まれていた70。広島へ到着した当初は住宅だけでなく,ボランティア活動を行っていた広島記念病院に新たな病棟を作る予定であった。しかし,病院を運営する側の計画がはっきりとしていなかったため,断念することになった71。前年に続いて広島記念病院でボランティア活動を行い,家づくりに取り掛かった72。

1950年は「広島の家」の活動の中で最も多くの住まいが建設された年であり,新しい試みも行われた。その一つがモデルハウスの建設である。前年の皆実町の平和住宅は市の設計した図面に基づいて建築したが,モデルハウスはワイ建築設計事務所のハリー・Y・岡村氏が設計し,江波東町に建設された。建物の広さは14坪,4畳半のフローリングの応接室と4畳半と6畳の和室,台所,タイル張りのトイレ,浴室,ポーチやテラスも備えていた。

モデルハウスの建設の様子が撮影された写真も残っている。基礎となるレンガを積み,家の骨格を組み,屋根にセメント瓦を運び上げ,建具を取り付け,完成に近づいていく家づくりの一連の様子が伺える。

完成後モデルハウスは7月30日から一般に公開され73,多くの人たちの関心を呼んだ。シュモー氏も,このモデルハウスについて報告書の中で次のように述べている。

「異なる4民族,2宗教から9人のボランティアが広島で共に働き生活した。多くの作業員の助けを借り,家を失った家族のために,8棟の家を建設した。最も興味深かったプロジェク卜は,小さいながらも立派な「モデルハウス」の建設で,最初に完成させ,市に寄贈した。このモデルハウスの一般公開期間中,何千もの人々が来訪し,口々に賞賛した。女性たちは毎日お客様にお茶を出してもてなした。このモデルハウスは日本全国のメディアに頻繁に取り上げられ,日本の建設省から感謝状と賞を贈られた74。」

日本の住宅雑誌にも広島県建設課長の諌早信夫氏が比治山の原爆傷害調査委員会(ABCC)の建物や基町に建設される予定の児童図書館などと共にヒロシマの国際建築として皆実町の住宅とモデルハウスを「愛の家」として紹介している。その中では,モデルハウスを「小さい住宅ながらさまざまな工夫が施されている」と述べ,台所と6畳の和室の境に食器棚があり両方の部屋から使用できることやかまどが屋外に作られ室内が煙でくすぶらないようになっていること,トイレはモザイク・タイル張りで清潔で明るい点が評価されている。また,「建物の外壁や居間の壁がライトブルーであり,和風建築からは考えられない色だが,少しもおかしくない75」と記している。モデルハウスを撮影したカラー写真を見ると,確かに外壁が鮮やかなライトブルーであることが確認できる。家のつくりを評価するだけでなく,シュモー氏の支援が,市民の聞に尊敬や親愛の情をもたらしたと伝えた。大きな反響があったのは,支援の方法が大きな組織ではなく個人を主体として行っている点で,日本人の支援と大変異なっており,夏の暑い時期に広島で暮らしながら,自らが地元の人たちと協力しながら作業を進めていく姿に尊敬の念を抱いていたためと報告している76。

シュモ一氏はモデルハウスを広島市へ寄贈する際,言葉や宗教の違いを超えて共に働き,助け合う良い「隣人」になることが,戦争を防ぐことができると述べ,この家に住む人,家を目にする人にとって,募金に応じ,家を建てた「広島の家」に関わったすべての人が友人であり「隣人」であり,この家が唯一目に見える友好の証であることを記憶にとどめておいてほしいと願った77。

 

2 “Eba Village”

1950年のもう一つの試みは,江波皿山の麓の南側の土地を購入し,家の建設を始めたことである。1950年から1952年にかけてここには,毎年家が建てられた。シュモー氏は,複数の住居を建てるだけでなく,集会所をつくり“Eba Village” と呼ぶ一つのコミュニティを作ろうと考えていた。シュモ一氏が記した図面では,既に建築した住居とともに,これから建設を予定しているコミュニテイハウス(図面上ではコミュニティセンター)と住居4棟が配置されている。実際は当初の配置とは異なり,コミュニティハウスを南側に建設し,Villageの一番北側には2家族が住むことができる二軒長屋1棟を建てることになる。

当時の設計図面を見ると建設された家の間取りは1種類ではなく,6種類(うち1つはコミュニティハウス)であったことが分かる。最も数多く建設されたのは,台所,トイレ,6畳2間の和室の間取りの住居で,4戸つくられた。皿山の斜面際に建てられた住宅は,他の住宅と異なり,玄関にはポーチがあり,南側にベランダが大きく張り出していた。内部は書斎と6畳の和室があり,浴室も備えていた。1951年の「広島の家」の活動に入る前のシュモー氏の文書に特徴的な広島の家が描かれている。この住居の外観とほぼ同じである。

江波の住宅は,より多くの家族が入居対象となるように1カ月につき,皆実町の平和住宅の半額以下の300円から350円に設定された78。

 

3 コミュニティハウス(現在のシュモーハウス)の建設

1951年の活動に入る前の報告書で,シュモー氏は,コミュニティハウスの構想を示している。コミュニティハウスは,“Eba Village” の人々だけでなく周辺地域の人たちも利用できることを考えていた。地域のことを話し合う集会室,ミシンを備えた作業室,図書室,トイレや浴室を備えることを構想している。中でも,ミシンを備えた部屋と浴室が最も重要と考えていた。ミシンを備えた部屋が重要と考えたのは,子どもを持ち原爆や戦争で夫を失った女性たちが生計を得るために衣料品の工場から仕事を受けている現状から作業を行う部屋として利用できるようにという思いからだった。浴室は,戦後多くの家が風呂を作る余裕がない状況からだった79。

1951年はシュモー氏が来日せず,アンドリュース氏が指揮を執った。大学で建築学を専攻し,シアトル市の都市計画委員会のメンバーであった建築の専門家ビンセント・オードソン氏も参加していた80。作業の様子を写した写真の中には,広島の家1,2には家を建てることにより,お互いを理解し合うこと,3には灯ろうに刻まれた「That There May Be Peace」,祈平和とシュモー氏が何度も手紙や報告書に記し,多くの人に伝えたスローガンが掲げられている。

このスローガンのもと日本とアメリカの若い人たちが力を合わせ楽しく作業を進めていた。ジーン・ウォーキンショー(旧姓ストロング)氏は,大学を卒業したばかりの時に活動に参加。作業の様子を「初めのころは作業に苦労しました。特にのみを使った作業では,誤ってハンマーで自分の手を叩くことがよくありました。でもすぐに上達し,挑戦することを楽しみました。私たちは一緒に働くことを楽しみ,そして,たくさん笑いました81。」と述べている。

1951年は,これまで宿泊していた広島流川教会ではなく,“Eba Village” 内に住居があった女性ボランティアの家に女性たちは宿泊し,男性たちは夏の間留守宅となっていた前年に建設した住宅に滞在した。夏の時期で蒸し暑く,夕立も降り,夜寝る時には蚊やガを避けるために蚊帳を吊るなどしていた。食材は,果物や魚は近くの商店や市場で購入し,肉や卵,パンは少し離れた場所まで買いに行った。お米は農家からの配給だった。チーズは高く,マヨネーズはデパートから油を購入して作るしかなかった。バターは貴重だった82。

またウォーキンショー氏は,「冷静で,寛容な人々の様子に心を動かされました。食料不足,建物の破壊,輸送手段の欠如という状況に直面しながらも,人々が明るく朗らかなことが印象的でした。特に,一緒に作業をした日本人の女性たちの思いやりや優しさに感動しました。私が料理当番の日は,買い出しした物でよくみんなを驚かせました。日本語を話すことができず,私にはほとんどの食材が目新しいものであり,時に変わった組み合わせを買ってしまいました。みんなとても優しくて,私が出した料理が少し変わっていると思いながらも食べてくれました83。」と語っている。シュモー氏が考えたように家づくりを通して互いを理解し,友情が深まったのだった。

完成したコミュニティハウスは,シュモー氏が構想したようにホールを持ち,浴室を備えていた。

設計当初の図面と現在のシュモーハウスの図面を比べてみると入口の位置が変わり,ホールは展示室,お風呂は物置となっている。押入れのあった3畳の部屋のつくりや洗面所,台所の流し,トイレの位置は当時とあまり変わりがない。

1951年は,世界中の400人から約8,000ドルが寄せられた84。さらにコミュニティハウスの建物は,戦争中に日本軍の占領によりフィリピンで収容所生活を余儀なくされていたアリス・フランクリン・ブライアント氏がアメリカ政府からの戦災補償金の2,018ドルを寄付し,建てられたものだった。

8月5日,現地で住宅とコミュニティハウスの寄贈式が行われた。アンドリュース氏はスピーチの中で原爆投下に対するアメリカ政府への抗議と日本人への親愛と善意を示すため,家づくりを行ったことを伝えた。夜にはスライドが上映され,話を聞きつけた近くの子どもたちで家の中はいっぱいになった85。


69 『朝日新聞』 1950年6月18日,19日
70 『毎日新聞』1950年 6月19日
71 Letter from Floyd Schmoe to Emery Andrews, June 26, 1950, Emery E. Andrews papers, 1925-1959, The University of Washington Libraries, Special Collections, Accession No.1908-001, Box4, Folder12.
72 Letter from Tomiko Yamazaki to Emery Andrews. June 26, 1950, Emery E. Andrews papers. 1925-1959, The University of Washington Libraries, Special Collections, Accession No.1908-001, Box4, Folder12.
73 『中国新聞』1950年 7月31日
74 Floyd Schmoe,“TERMINAL REPORT 1950,” Floyd W. Schmoe Papers. 1903-1993, The University of Washington Libraries, Special Collections, Accession No.0496-008, Box12, Folder16.
75 諌早信夫「ヒロシマの国際建築」『新住宅・昭和25年 9~10月号(通巻第41号)』新住宅社 1950年 48頁-49頁
76 諌早信夫 「ヒロシマの国際建築」『新住宅・昭和25年9~10月号(通巻第41号)』新住宅社 1950年 48頁-49頁
77 Floyd Schmoe,“Remarks at the presentation of a “model house” to the City of Hiroshima,” August 4, 1950, Floyd W. Schmoe Papers, 1903-1993, The University of Washington Libraries, Special Collections, Accession No.0496- 008, Boxl2, Folder30.  
78 Floyd Schmoe,“TERMINAL REPORT 1950,” Floyd W. Schmoe Papers, 1903-1993. The University of Washington Libraries, Special Collections, Accession No.0496-008, Box12, Folder16.
79 HOUSES FOR HIROSHIMA Report from Floyd Schmoe to friednds, Floyd W. Schmoe Papers, 1903-1993, The University of Washington Libraries, Special Collections, Accession No.0496-008, Box12, Folder16.  
80 “THE SEATTLE TIMES,” Sunday, November 25, 1951. Floyd W. Schmoe Papers, 1903-1993, The University of Washington Libraries, Special Collections, Accession No.0496-008, Box13, Folder9.
81 ジーン・ウォーキンショー氏の証言 2012年 シュモーハウス展示「広島の家」の建設に参加した人たち
82 “The report from Jean Walkinshaw to everyone” ジー ン・ウォーキンシ ョー氏寄贈 広島平和記念資料館所蔵
83 ジーン・ウォーキンショー氏の証言 2012年 シュモーハウス展示「広島の家」の建設に参加した人たち
84 Floyd Schmoe, “TERMINAL REPORT 1951 SEASON,” Floyd W. Schmoe Papers, 1903-1993, The University of Washington Libraries, Special Collections, Accession No.0496-008, Box12, Folder16.
85 Letter from unknown, August 5, 1951, Floyd W Schmoe Papers, 1903-1993, The University of Washington Libraries, Special Collections, Accession No.0496-008, Boxl2, Folder16.

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