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国際平和拠点ひろしま

Leaning from Hiroshima’s Reconstruction Experience: Reborn from the Ashes vol4Ⅸ 「広島の家」のその後

牛田に建てられた住宅を除いて「広島の家」は広島市に寄贈され,原爆で被害を受けた家族が住んだ。その中には,原爆で両親を失った子どもたちだけの世帯もあった。“Eba Village” では子どもを持つ世帯も多く,子どもたちの笑顔があふれ,笑い声が響いた。敷地内では色々な野菜を作り,花が咲いた。皿山は子どもたちの遊び場だった97。コミュニティハウスでは,“Village” 内に住む人たちが集まり,周辺の地域の人たちも利用した。
その後,老朽化や住宅事情の変化により,「広島の家」は建て替えられたり,取り壊されていく。皆実町の住宅は,1982年(昭和57年)に建て替えられたが,皆実町平和住宅という名称を今に伝え,シュモー氏が贈った平和の灯ろうがひっそりと残っている。“Eba Village” では昭和50年代から家の解体が行われ始め,1996年(平成8年)に住宅の最後の一戸が取り壊された。しかし,コミュニティハウスだけは,「シュモー会館」の名称で集会所として長く地域の人たちに利用されてきた。地域の人々の声により建物は改修が行われ,説明板が設置された。集会所としての機能は失われず,定例の町内の会合や子どもの習字教室,お祭りの時にも使用され,広く地域の人たちに大事に活用され愛着のある場所であった98。
地域の人たちに愛された「シュモー会館」は,広島南道路の整備に伴い集会所としての役割を終える。新しい集会所もできた。しかし,現在,ボランティアで「シュモーハウス」の展示解説を行っている「シュモーに学ぶ会」の尽力もあり,建物は保存されることになった。シュモー氏が唯一の目に見える友好の証と話した建物の一つは残されたのである。
2012年,建設された当初の場所から北西に約40メートルほど曳家移転し,新たに被爆後の海外からの支援を伝える広島平和記念資料館の附属展示施設となった。
建物を大切に使ってきた地域の人たち,シュモー氏の思いを伝える人たちの熱意が建物を存在させてきたのだった。


97 シュモーに学ぶ会『ヒロシマの家-フロイド・シュモーと仲間たち-』 2014年
98 シュモーに学ぶ会『ヒロシマの家-フロイド・シュモーと仲間たち-』 2014年

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