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国際平和拠点ひろしま

Hiroshima’s Reconstruction Vol.12広島の復興シリーズ Vol.12:基町地区

1945年8月6日に広島に原子爆弾が投下されて75年。

原子爆弾により壊滅的な被害を受けた広島は,今日,国内外から「復興を成し遂げた街・平和を模索する都市」というアイデンティティが認知されています。

広島の復興の過程をとりまとめた「広島の復興経験を生かすために‐廃墟からの再生‐第1巻」を基に,広島の原子爆弾による被害からの復興を紹介します。

Vol.12では,「基町地区」について紹介します。

基町地区

広島太田川デルタの要であり、広島城の中核であった天守閣などが置かれた地が基町地区である。第二次世界大戦中は、軍都広島の軍事色を強めていった場所でもあった。

爆心地から約1キロメートルという至近距離であったことから人的にも物理的にも壊滅的な打撃を受けた地区であった。戦後は、軍が解体された空白地帯のなった基町は、被爆・戦災による住宅不足に加えて、海外からの引揚者や復員兵に対しての応急的な住宅を供給する住宅用地のして絶好の場所として判断された。そして戦後この地が国有地となることで独特の役割を担うことになった。中央公園として予定されていた公園用地に住宅が建設されたことにより基町問題が始まった。

緊急住宅対策として建設した480戸をはじめとして、基町地区は一大住宅地となっていった。昭和31年度からは公営住宅の建替工事が進められ、昭和43年度までに中層住宅が完成していった。住宅地への更なる大転換の趣旨として、都市計画審議会において次のように説明されている。

「本市(広島市)の中央部に位置する基町地区内の旧軍用地は,中央公園として計画されていたが,この地域には,戦後急造された木造公営住宅があり,この移転先がないため公園造成事業が殆ど進捗せぬ現状であった。この公園造成上の隘路を打開するためと,老朽公営住宅を整理統合するために,平和記念都市建設計画中に新たに『一団地の住宅経営』の部を追加し」

しかし、中層住宅建築後も公園予定地には依然として多くの不法住宅等が立地したままであり、密集した木造住宅群を全て建替えることは不可能であることが明確となった。

昭和44年の時点で基町地区における太田川本川の左岸沿いの河川敷・土手に形成されていた不法建築住宅群は撤去されておらず、存続したままであった。ここはかつて相生通りとも原爆スラムとも呼ばれていた。戦災復興土地区画整理の進行に伴い、行き場を失った人々が相生通りに集積していったのである。また、平和記念公園の整備が進んだ結果、人々が相生通りに集積していったという側面もあった。簡易的な素材ですぐに老朽化が避けられない建物で埋めつくされており頻繁に火災が発生するなど危険な場所として位置付けられていった。しかし、昭和45年に現地調査が実施された時、環境的には問題があるといえ、きめ細かなコミュニティも形成されていたことが判明するなどした。

土地区画整理事業の終息期をむかえる昭和40年ごろには基町地区の扱いが最大の課題となっていった。ここの再開発が戦災復興事業の最終段階の大きな課題となったのである。

 


参考

https://hiroshimaforpeace.com/fukkoheiwakenkyu/vol1/1-31/

 

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