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国際平和拠点ひろしま

Hiroshima’s Reconstruction Vol.13広島の復興シリーズ Vol.13:製造業の従業者数(戦時中から終戦直後)

1945年8月6日に広島に原子爆弾が投下されて75年。

原子爆弾により壊滅的な被害を受けた広島は,今日,国内外から「復興を成し遂げた街・平和を模索する都市」というアイデンティティが認知されています。

広島の復興の過程をとりまとめた「広島の復興経験を生かすために‐廃墟からの再生‐第1巻」を基に,広島の原子爆弾による被害からの復興を紹介します。

Vol.13では,「製造業の従業者数(戦時中から終戦直後)」について紹介します。

製造業の従業者数(戦時中から終戦直後)

従業者数の推移

広島県の主力産業の一つは戦前から製造業であった。製造業の従業者数は、昭和15(1940)年に10万40人であったが、終戦翌年の昭和21(1946)年には9万482人となり1万人減少した。しかし、昭和22(1947)年には1万人近く増加し、昭和23(1948)年にはさらに1万人以上増加し戦前の水準に回復した。従業者数で注目すべきは昭和20年から21年の動きである。昭和20年の従業者数と比較して昭和21年の従業者数は約6,000人減少している。これは連合国による賠償請求問題が昭和21年1月から本格化し,その指定と解除をめぐる混乱が影響したのではないかと推察されている。

終戦直後は、当時のエネルギー事情もあり休業している工場もあった。昭和21年の広島県の休業工場は79か所であり、東京、神奈川、愛知、大阪、兵庫に次いで多かった。しかし、22年には20か所に減少しており、比較的順調な復旧・復興の様子がわかる。

従業者数の回復

広島市の人口は昭和19(1944)年には約34万人であったが、原爆投下により昭和21年には約17.1万人へと半減した。一方、広島県全体の製造業の従業者数は上述したとおり終戦翌年の昭和21年でも戦時中の水準から約1万人減(10%減)にとどまっている。他都道府県と比較しても広島県の減少幅は相対的に小さかった。ただし、これは常時雇用の職工5人以上の工場の統計であり、常時雇用の職工5人未満の工場数は昭和15年と昭和23年を比較すると72%減少した。従業者数も5人未満の零細工場は、約3分の1に減少した。

常時雇用の職工5人以上の工場については、広島県全体では従業者数は致命的と言えるほどには減少しなかったことが、その後の復旧・復興の下支えとなったとみられている。


参考

https://hiroshimaforpeace.com/fukkoheiwakenkyu/vol1/1-35/

 

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