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国際平和拠点ひろしま

Hiroshima’s Reconstruction Vol.4広島の復興シリーズ Vol.4:原爆投下直後の広島

1945年8月6日に広島に原子爆弾が投下されて75年。

原子爆弾により壊滅的な被害を受けた広島は,今日,国内外から「復興を成し遂げた街・平和を模索する都市」というアイデンティティが認知されています。

広島の復興の過程をとりまとめた「広島の復興経験を生かすために‐廃墟からの再生‐第1巻」を基に,広島の原子爆弾による被害からの復興を紹介します。

Vol.4では,「原爆投下直後の広島」と題して,原子爆弾投下直後の救援体制などについて紹介します。

原爆投下直後の広島

救援体制について

原爆投下により広島県庁は全壊し,行政機能を失った。県防空本部が立ち上がったのは,被爆から9時間後のことであり,比治山多聞院に設置され,食料や救護の応援が指示された。

宇品(広島市南区)にあった陸軍船舶指令部では,被爆直後から救援活動に取り組み8月6日午前11時30分には,全部隊に対し日常業務を停止し,救援活動をするように指示がでた。

当時,広島に設置されていた第2総軍司令部(西日本の軍を統括していた司令部)は被爆の状況の報告を受け,陸軍船舶司令部司令官を最高責任者として一つの指揮系統に統一させた。これにより,救援・事態収拾のため大動員がなされたのである。

軍による救援活動では,広島市内外から4,000人に及ぶ船舶部隊が広島市内に入った。また陸軍病院も被爆直後から救援活動を行なっていた。

原爆投下により,広島市内の防空体制は壊滅的に近い打撃であったが,救援体制はすぐに機能をし始め,被爆当日の8月6日午後3時までに乾パン12万食が配給された。また,被爆当日には比治山多聞院に救護所が開設された。被爆翌日の7日には警察署の救護班員が市内に入り救護活動を行なった。医師や看護婦はもちろんのこと高等女学校の教員・生徒なども救護活動を行なった。

救護所について

空襲に備えて指定されていた救護所も大きな被害を受け救護活動は計画どおりには進まなかった。重症患者が多く集まった場所は焼け跡でも河原でも救護所として定められ,救護班が配置された。

救護所の総数は明らかになっていないが,判明している数は次のとおりである1)。

救護所数:市内99か所(うち病院救護所16),市外142か所(うち病院救護所38),計241

倒壊や全焼を免れた病院では被爆直後から救護活動が行われた。また広島市内から脱出した人数は20万人を超え,庄原や大竹など遠くの地域にも多くの人が収容された。

屍体処理について

屍体の処理は救護活動同様に困難な課題があった。夏場の腐敗期であり、丁重かつ迅速に実施することとされた。火葬または土葬で行われ、可能な限り神官や僧侶を列席させた。

軍・警察。警防団による全般的屍体処理作業は8月11日に終了したが、その後も部分的作業が続けられた。8月20日までに広島県が把握した屍体処理数は次のとおりである。

警察機関の処理数:1万7,865人

軍部隊の処理数:1万2,054人

その他市外に避難し死亡した者:3,040人


参考

1)谷整二「1945 年8月6日広島原爆投下時の救護所」 (http://home.hiroshima-u.ac.jp/heiwa/Pub/42/22Tani.pdf)

https://hiroshimaforpeace.com/fukkoheiwakenkyu/vol1/1-15/

 

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