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国際平和拠点ひろしま

Hiroshima’s Reconstruction Vol.9広島の復興シリーズ Vol.9:平和記念公園の形成過程

1945年8月6日に広島に原子爆弾が投下されて75年。

原子爆弾により壊滅的な被害を受けた広島は,今日,国内外から「復興を成し遂げた街・平和を模索する都市」というアイデンティティが認知されています。

広島の復興の過程をとりまとめた「広島の復興経験を生かすために‐廃墟からの再生‐第1巻」を基に,広島の原子爆弾による被害からの復興を紹介します。

Vol.9では,「平和記念公園の形成過程」について紹介します。

平和記念公園の形成過程

Vol.7で紹介した広島平和記念都市建設法の国会通過が確実となった時点で、広島では平和記念公園のコンペが実施されることとなった。現在の平和記念公園の中島地区にあった中島公園を公園の扱いから平和記念施設として国からの補助のもとに平和記念資料館、平和記念館を建設する動きが始まった。

当時の募集要項での設計方針は次のとおりであった。

1募集の主旨に叶ったもので環境に適応させること,

2平和記念館と公園との総合的な計画とすること,

3造園,苑路,広場,植樹の設計をすること(樹林については針濶を区別すること),

4平和記念館,各種国際会議が出来る集会室,原子爆弾災害資料の陳列館,平和の鐘を釣る塔,集会場(収容人数2,000人),小会議室,事務室,図書室,大食堂等を計画すること,

 

このコンペにおいて入選したのが丹下健三グループ(代表丹下健三)案であった。戦後の早い時期に実施されたコンペではあったが、広島という都市で実施されたこのコンペは注目を浴び、145点の応募の中から丹下健三グループ案が選ばれた。

入選した丹下健三グループ案については次のような解説がされている。

「同設計によると公園予定地 は公園面積三萬七千坪に対し,東から西に抜けて広島市自慢の百メートル 道路を正面として南向きに平和記念館を配置,同館は廊下によって本館と 集会場の二建物がつながれ,公園の中央には平和記念碑ともいうべきアー チの塔をつくり随所に緑樹が配されており百メートル道路に観光客が立 てば記念館の廊下―アーチの塔をすかしてアトムの残骸旧産業奨励館の ドームを見通し得るようになっている」

昭和24年(1949年)から平和記念公園の整備が始まり、現在の平和記念資料館本館となる陳列館が昭和26年(1951年)2月に着工、平和記念資料館東館となる平和記念館が同年3月に着工され、竣工したのは昭和30年(1955年)のことであった。

一方、公園内には立ち退きを迫られたままの民家が多く残っていたことも忘れてはならない。公園内から民家が全て取り除かれたのは昭和34年(1959年)のことであった。


参考

https://hiroshimaforpeace.com/fukkoheiwakenkyu/vol1/1-24/

 

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