2 戦争と広島,原爆投下の衝撃
前述のように,広島は戦前より日本有数の軍都であった。広島城は軍の拠点となり,明治27(1894)年7月に始まった日清戦争を機に,広島は随一の派兵基地,兵站基地となった。広島にはまた,当時,一般には知られていなかったが,瀬戸内海の大久野島に毒ガス製造工場(昭和4[1929]年建設)も置かれていた。さらに,広島市内には,第2次世界大戦末期,本土決戦に備え,西日本地域の軍を統括するために新設された第2総軍の司令部も置かれた。
昭和20(1945)年7月25日,米国は,原子爆弾の投下目標を広島,小倉,新潟,長崎の4都市に絞った(当初は京都も投下対象に含まれていたが,政治的理由で除外された)。その後,8月2日に広島を第1目標とする作戦命令が発せられ,8月6日の未明,「リトル・ボーイ」と命名された原子爆弾を搭載するB29エノラ・ゲイ号がマリアナ諸島のテニアン島を飛び立ち,一路広島を目指した。8月6日の広島は,朝から晴れ間が広がっていた。午前8時15分,エノラ・ゲイが原子爆弾を投下。爆弾は約43秒間落下した後,投下目標の相生橋よりやや南東の島病院の近く,地上約600メートルの上空で核爆発を起こした。爆発の瞬間,巨大な火球から強烈な熱線が放出され,周辺の地表面は3,000 ~ 4,000度にも達した。最大風速440m/秒の強烈な爆風が放射状に広がり,約10秒後にはほぼ市街全域に達した。
広島の原爆被害の概要 | |
原爆投下時 | 昭和20(1945)年8月6日 午前8時15分 |
被害状況 | ●特徴: ・瞬間的・無差別的な大量破壊,殺りく。 ・放射線による後障害がその後も続く。 ●熱線:約3,000 〜4,000℃(地表面) ( 鉄の溶ける温度1,500℃) ●爆風:秒速440m(爆心地近く) ( 大型台風秒速約30 〜 40m) ●放射線:・初期放射線(爆発から1分以内の放射線) ・残留放射線(地上に残った放射線) →間接被爆(入市被爆)による発症,死亡 |
死者(昭和20[1945]年12月末) | 約14万人±1万人(長崎は約7.4万人±1万人) |
被爆者の現状(令和2[2020]年3月末) | 人数:全国136,682人(うち広島市内44,836人) 平均年齢:全国83.3歳,広島市82.8歳 |
「ポケット版ヒロシマ平和情報」(広島市平和推進課), 「原爆被爆者対策事業概要」(広島市原爆被害対策部)より抜粋
熱線の放出は短時間であったが,極めて強烈で,爆心地から1キロメートル地点にいた人々は即死するか重度の火傷を負い,3キロメートル以上離れた地点でも,服を着ていない部位に火傷を負った。爆心地から2キロメートル以内の木造建築は全壊し,多くの人々がその下敷きになるなどして命を落とした。
爆発から30分後には,熱線による自然発火と倒壊した建物からの発火が延焼して,火事嵐が吹く大火災が発生した。爆心地から2キロメートル以内の燃えるものは燃え尽くし,多くの人が焼け死んだ。
原子爆弾から放出された放射線は,人体に深刻な影響を引き起こした。爆心地から1キロメートル地点の放射線量は,中性子線・ガンマ線合わせて4グレイ。それは,半数の人が死に至る量だったと推定されている。外傷がないのに,放射線を浴びたため数日後に発病し,その後,死に至る人が続出した。直爆を受けた人以外にも,残留放射能や,直後に降った放射性落下物を含む「黒い雨」により,周辺居住者や入市者も放射線を浴びた。
原爆による死者の数は,いまだに正確につかめていない。8月6日原爆投下時,広島市には居住者,軍人,通勤等による入市者を含め約35万人の人がいたと推定されている。広島にはまた,日本人だけでなく,米国生まれの日系米国人や,ドイツ人神父,東南アジアからの留学生,そして,当時日本の植民地だった朝鮮と台湾,さらには中国大陸からの人々,そして10数名の米兵捕虜など,様々な国籍の人々がおり,彼らもいやおうなく原爆の惨禍に巻き込まれた。ちなみに,広島市が昭和51(1976)年に国連に提出した資料では,昭和20(1945)年末までの原爆による死亡者は14万人±1万人と推計されている。
被爆直後から,軍を中心に救援活動や屍体処理,瓦礫の撤去などが試みられた。各所で肉親や子供,兄弟姉妹を探し歩き,あるいは家族の遺体を自ら荼毘に付す人の姿も見受けられた。未曾有の惨禍と深い慟哭,そして究極の混乱に包まれた当時の広島にあって,復興の兆しは容易に見えなかった。