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国際平和拠点ひろしま

6 産業経済の再建を促したもの

広島市には,戦前より人口に比して製造業が多かったが,原爆投下によって事業所も労働者も甚大な被害を受けた。こうした厳しい状況下で,広島の産業経済は,なぜ急速に再建し得たのだろうか。この問いを解く手がかりとして,ここでは「工業統計表」のデータに注目したい。なお,当時の統計は都道府県単位で発表されているため,主に広島県全体の数値で検討するが,可能な限り広島市のデータも取り上げるように努めた。
広島県の製造業における従業者数は,昭和22(1947)年から昭和23(1948)年の段階で,戦前の水準にまで回復した。その背景として,爆心地から離れた主要工場の被害が比較的小さかったことが指摘できる。爆心地から約4 ~ 5.5キロメートルの距離にあった大工場では,多数の犠牲者が出た一方で,施設の被害は比較的軽微にとどまった。

職工層の厚みも見逃すことができない。広島県では,従業者数に占める職工の比率が戦前・戦後を通じて全国平均より高く,また女性職工の存在が戦後の職工数減少に歯止めをかけた。
加えて,軍事施設の民間転換,特に製造業への比較的円滑な転換も復興を強く促した。旧陸海軍の施設のうち,占領軍が使用しないものについては順次,民間への譲渡等が進められ,製造業の再建が進んだ。
広島県の製造業は戦前から基幹産業ではあったけれども,規模や生産性では全国水準を下回っていた。戦後になって全国水準を上回るに至った要因として,軍事施設の民間転換のほか,昭和25(1950)年6月に勃発した朝鮮戦争による特需や,広島県が昭和27(1952)年12月に発表した「生産県構想」が挙げられる。同年4月には占領下で禁じられていた新造船が解禁され,戦前から県内に集積のあった造船業が活気づいたことも同構想にとって追い風となった。
昭和15(1940)年と昭和23(1948)年のデータの比較から,終戦直後に激減したのは,家族経営を中心とする中小・零細工場だったことが分かる。広島市の零細工場の多くは,爆心地に比較的近い住宅地と工業地が混在する地域に立地し,原爆投下によって壊滅的な打撃を受け,事業の継続ができなくなったものと推察される。
しかし,軍需産業から解放され,技能工や元軍人,失業者など多様な人々が起業家精神を発揮して新規創業に取り組んだことなどから,1950年代には基盤的支援産業が集積し,これが主要企業の生産や試作を支えることになった。1970年代まで,広島県の産業経済の復興を支えていたのは,主として製造業であった。

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