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国際平和拠点ひろしま

8 メディアと復興

人類史上初めて広島に投下された原爆による惨禍を,国内外のメディアはどう報じたのだろうか。
未曾有の事態をいち早く伝えようとしたのは,広島市内の報道各社の記者たちであった。彼らは自らも被爆し,電話や電信も途絶する中,死力を尽くして「広島壊滅」の第一報を送稿した。しかし,混乱の中で,原稿に書かれた被害の甚大さを本社に信じてもらえなかったり,送稿が届かなかったりしたために,いずれも「幻の記事」となった。
広島県内で唯一,新聞発行を続けていた中国新聞社の本社は,爆心地から東に約900メートルの場所にあり,被爆によって2台の輪転機とともに社屋は全焼した。犠牲者は本社員の3分の1に当たる114人にも上った。

原爆投下に関する最も早い報道は,8月6日午後6時のラジオ放送だったとされる。だが,政府・軍部当局は原爆被害の甚大さを伏せ,国民の士気を保つために報道統制を続けた。戦時下,記者たちは目撃したままを報じることはできなかったが,中国新聞の記者たちは8月7日に口伝隊を編成し,罹災者の応急救済方針や臨時傷病者の収容場所,救援食料などの状況を口頭で伝えて回った。
左に掲げた写真は8月6日午前11時すぎ,爆心地から約2.2キロメートル離れた御幸橋で被爆した人々を収めた1枚だ。中国新聞カメラマンの松重美人記者が撮影した。松重記者は,爆心地から南東約2.7キロメートルの翠町(現広島市南区西翠町)の自宅で被爆した。幸い彼自身もカメラも無事であった。松重記者は6日当日,5枚の写真を撮影した。これらはその後,広島の原爆を記録した代表的な写真となるが,当時は本社の全焼で載せる紙面がなかった。この写真が初めて報じられたのは,昭和21(1946)年7月6日付の『夕刊ひろしま』であった。
昭和20(1945)年8月14日,日本政府は連合国のポツダム宣言を受諾し,8月15日に天皇の「玉音放送」が流れ,ここに終戦を迎えた。敗戦の混乱の中で,政府・軍部の厳しい報道統制はなし崩しとなり,8月19日には廃墟となった広島の写真が各紙に掲載され,全国で報じられた。この時,日本の国民は,原爆がもたらした惨禍を目の当たりにした。日本の報道機関は,原爆の威力に続いて,放射線障害の影響についても伝え始めた。
他方,海外メディアでは,ハワイ生まれの日系2世レスリー・ナカシマ記者による初の現地ルポをはじめ,広島入りした欧米の記者たちがヒロシマを報じ始めた。彼らは原爆の残虐性を見逃すことはなかったが,同時に,広島で撮られた映像は原爆投下の正当性を補強する素材としても用いられた。GHQによる日本の占領統治が本格化すると,再び「原爆報道」は封印される。報道規制が全面的に解けるのは,昭和27(1952)年4月,日本の主権が回復されてからであった。
その後,昭和29(1954)年3月のビキニ水爆被災事件を契機とする「原水爆禁止」を求める国民的な運動,あるいは被爆者自身による国の援護を求める運動にメディアも呼応し,核兵器をめぐる問題を被害に遭う人間の側から捉える「原爆・平和報道」の礎を築いていった。
廃墟から市民はどう生き抜いてきたのか。原爆で傷つき,変わり果てた広島に疎開先から戻った市民の多くは自らの力で生活を立て直すしかなかった。広島市の人口は,昭和20年11月1日の調査で被爆前の約3分の1に減ったが,14万人弱の人々が焼け残った周辺部で暮らしていた。

敗戦による平和が到来しても,主食の配給はむしろ悪化していた。市民はイモか,野菜や野草をわずかの米に混ぜた粥を主食としていた。そんな廃墟の広島で,すぐに隆盛を見せ始めたのが闇市場である。闇市は被爆直後の昭和20(1945)年8月下旬ごろには広島駅前広場に現れていたが,取り締まりによって急速に衰退し,公設市場などに転換されていった。

ところで,広島は,戦前は全国一,移民を送り出していた。世界の各地で暮らすゆかりの日系人たちは,原爆に見舞われた古里をいち早く支援し,米国カリフォルニア州やハワイ,ブラジル,アルゼンチンなどの広島県人会からは支援金や物資が寄せられ,復興に役立てられた。
広島の市民に夢をもたらしたのが,プロ野球チーム「広島カープ」の誕生だ。他の球団と違って親会社を持たず,資本金は官民の有力者が寄せた。結成当初からしばしば深刻な財政難に襲われたけれども,広島市民,県民は後援会を結成し,募金などの支援を行った。人々はカープの躍進に広島の復興と発展を重ね合わせた。
昭和25(1950)年の朝鮮戦争は日本全国に特需ブームをもたらし,広島市民は衣食から暮らしの上向きを感じるようになった。半面,戦災復興区画整理事業による住民の立ち退きや,増加する人口に比例して増え続けるごみ・し尿処理の問題,基町地区の再開発事業など,広島が復興を成し遂げるまでには,ひずみや矛盾もあった。「よくも生き抜いてきた」。原爆市長と呼ばれた濱井元広島市長がこう書き表した感慨は,原爆による廃墟から生活再建に挑んだ市民共通の思いでもあったに違いない。

 

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