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国際平和拠点ひろしま

Q4 復興過程で摩擦は生じなかったのか?

県や市など行政が主導した広島の復興は,しばしば住民の反発にあった。
戦後の闇市が並んだ広島駅前は,バラックの不法建築が密集し,大規模な火災が頻発した。昭和24(1949)年3月には民家100軒と商店約500軒が全焼したほか,昭和30(1955)年から昭和32(1957)年にかけ,毎年のように数十軒の民家・商店が全半焼する火災が発生し,不法建築の解消は急務となった。だが市と住民側の立ち退き交渉は難航。昭和32年9月に市当局が警官隊に守られて強制執行に踏み切った。その後,昭和40(1965)年には地上7階,地下1階の広島ステーションビルが完成し,復興は一段落した。
広島城の南西の基町地区には広大な旧軍用地があり,昭和22(1947)年ごろまでに広島市の簡易住宅を含む計1,815戸の公営住宅が建ったが,周辺には不法建築も多く,昭和24年の時点で不法建築は2,500戸に達した。また,近くの河川敷沿いの相生通りには昭和35(1960)年ごろまでに約900戸のバラックが密集して「原爆スラム」と呼ばれ,たびたび火災が発生した。
一方,基町地区では昭和29(1954)年以降,バスセンターや旧広島市民球場,4階建て公営アパート53棟などの建設計画も進み,用地確保が急務となった。中でも球場のため広島市は老朽化した市営住宅を移転して用地を確保しようとしたが,同年12月には地元住民ら約800人が,基町住宅立退反対期成同盟会を結成して反対。結局,球場は市営住宅地区の外側に建設され,昭和32年7月に完成し,プロ野球広島カープの本拠地として親しまれた。
基町地区では最終的に広島県と広島市により,戦災復興事業ではなく住宅地区改良事業として再開発が実施され,昭和44(1969)年度から昭和49(1974)年度の間に「不良住宅」計2,600戸が撤去されて不法建築は解消。県,市,住宅公団などによる8階~ 20階建ての高層住宅(2,805世帯)が昭和53(1978)年に完成した。今では「基町高層アパート」と呼ばれ,広島の復興のシンボルとも言われている。

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