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国際平和拠点ひろしま

Q5 原爆被爆による経済的損失はどのくらいで,産業経済はどのように復興したのか?

●経済的損失
経済的損失には,建築物や機械設備,道路や橋などの「物的資産」と,現金や預貯金,株式,債券などの「金融資産」がある。このうち金融資産は,書類や帳簿が消失したため,損失を推定するのは事実上,不可能であるが,物的資産の損失は,いくつかの推定がなされている。
たとえば建物は,広島市の調べでは,住宅や商店,工場,学校などを含む全ての建築物76,327戸のうち,70,147戸が全半焼または全半壊した。建物の内訳は,民家約64,000軒,工場約600軒などで,家具・家財や工場設備などの被害額の推定が可能だ
広島市の『市勢要覧(昭和21[1946]年版)』(昭和22[1947]年)によると,民家,ビルディング,橋梁,道路,家財,通信施設の6項目の被害総額を7億6,343万円(当時の価格)と推定している。一方,国の経済安定本部の昭和24(1949)年の報告書では,広島市の被害総額は6億9,500万円(同)と推定している。
広島市と長崎市が共同で編集した『広島・長崎の原爆災害』(昭和54[1979]年)は,以上のデータをさらに細かく計算し直し,損害総額を昭和20(1945)年8月の価格で8億8,410万円(同)と推定している。昭和19(1944)年の日本の一人当たり国民所得が1,044円であることから,当時の日本人85万人の年間所得に相当する。

 

●産業経済の復興
広島の産業経済の復興には,様々な要因があるが,被爆の影響を受けたのは,市中心部にある従業員5人未満の零細工場が大半で,大規模工場はあまり打撃を受けなかったこと,広島県全体の労働人口はさほど減少せず,従業員を確保できたことが指摘できる。
行政の指導もあった。広島市は昭和24年9月「産業復興五ケ年計画試案」を発表し,昭和28(1953)年度の産業生産を昭和23(1948)年度の3.3倍にする目標を掲げ,ほぼ達成した。また,昭和25(1950)年6月に勃発した朝鮮戦争による特需も,自動車や缶詰などの生産を増やし,その後の経済発展の下地となった。

 

 

 

 

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