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国際平和拠点ひろしま

Q7 戦後,海外から広島にはどのような支援が寄せられたのか?

最も早いものは,被爆から1か月後の昭和20(1945)年9月8日に広島入りした赤十字国際委員会(ICRC)駐日主席代表だったスイス人医師マルセル・ジュノーによる約15トンの医薬品・医療機器の提供であろう。広島の平和記念資料館近くの緑地には氏の功績を称える顕彰碑があり,毎年,氏の命日(6月16日)の時期に記念祭が営まれている。
米国人大学講師,フロイド・シュモーは昭和24(1949)年からたびたび広島市を訪問し,米国で集めた募金などをもとに,日本人ボランティアの協力を得て,原爆で家をなくした市民のために住宅を建て続けた。昭和29(1954)年までに延べ20戸の住宅と集会所1棟を建て,集会所の建物は平成24(2012)年から「広島平和記念資料館シュモーハウス」として公開されている。
米国ニューヨークの評論雑誌『サタデー・レビュー・リテラチャー』の主筆ノーマン・カズンズは昭和24年に広島を訪問。帰国後,広島の原爆孤児と米国市民の「精神養子縁組」を呼びかけ,約10年間で約500人の孤児に養育費など約2,000万円が送られた。カズンズは被爆してケロイドを負った女性の訪米治療にも尽力し,昭和30(1955)年5月,25人の被爆女性が渡米,1年余り滞在して手術や治療を受けた。
海外の日系移民社会からも支援が行われた。昭和23(1948)年4月にはハワイ在住の広島県ゆかりの人々により「ハワイ広島戦災難民救済会」が結成され,同年,広島県と広島市に計9万ドル,さらに昭和26(1951)年,広島市に2万ドルが送られた。また,昭和25(1950)年に届けられた米国・南カリフォルニアの広島県人会からの寄付金約400万円や,南米ペルーの日系人会からの寄付金約140万円などを基に,広島市児童図書館などが建設されている。

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