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国際平和拠点ひろしま

column 6 グラウンドゼロに立って  ―広島訪問者たちの言葉

永井 均

はじめに
今日,広島市には年間約1,150万人の観光客が訪れ,うち外国からの訪問者は約53万人に上る。外国人観光客の多くが平和記念公園や広島平和記念資料館に足を運んでおり,例えば平成25(2013)年度の資料館の来館者総数は約138万人,うち外国人は約20万人を数えた。彼ら,特に外国人訪問者は広島で何を感じ,どのような思いを抱いたのだろうか。

 

1.対話ノート 
終戦直後に広島の地を踏んだ外国人は,占領軍関係者やジャーナリストなど限定的だった。昭和27(1952)年4月,講和条約の発効で日本が主権を回復すると,外国人観光客も増えていく。昭和30(1955)年8月に平和記念資料館が開館すると,初年度から11万人を超える人々が訪れた。以降,入館者は概ね増え続け,1970年代ごろには年間入館者数が100万人を超えた。
平和記念資料館の本館出口付近には,来館者同士,あるいは来館者と資料館の対話のためのノートが置かれている。小倉馨館長らの発案で,昭和45(1970)年10月に初めて設置されたものだ。ノートには様々な言語で,様々な国籍・年齢の人々が,それぞれの思いを書き込んでいる。平成26(2014)年12月現在,その数は1,323冊に達した。

 

2.スピーチと芳名録の言葉から 
広島には世界各国の首脳たちも訪れており,自らの言葉を残している。例えば,昭和32(1957)年10月に平和記念公園を訪れたインドのジャワハルラル・ネルー首相は,今回の訪問は「聖地礼拝の旅」で,広島は「起こりうる最悪の暴力の結果であり,また再生が起きる信頼をも意味している」と述べた。昭和56(1981)年2月に来広したローマ法王(教皇)ヨハネ・パウロ2世(ポーランド出身)のスピーチも印象深い。「過去を振り返ることは,将来に対する責任を担うことです」。このフレーズを繰り返しながら,法王は次のように語りかけた。「広島を考えることは,平和に対しての責任を取ることです。この町の人々の苦しみを思い返すことは,人間への信頼の回復,人間の善の行為の能力,人間の正義に関する自由な選択,廃墟を新たな出発点に転換する人間の決意を信じることにつながります」。
他方,平和記念資料館の「芳名録」にも,各国の首脳や著名人がメッセージを寄せている(平成26[2014]年8月現在で66冊,2,000人以上が記帳)。例えば,ソウルオリンピック陸上女子の米国代表,金メダリストのフロレンス・ジョイナー選手は平成2(1990)年3月に資料館を訪れ,次のように書いた。「できるならば時計の針を戻し,1945年に起こったことを起らないようにしたいと思います。しかし,それは不可能です。ですから世界が広島の惨禍から学び世界平和のために戦うことを常に祈ります。世界のすべての人々がここで惨状を見て,常に心の中に平和を持たなくてはなりません」。平成4(1992)年4月に来広したミハイル・ゴルバチョフ元ソ連大統領は次のような言葉を綴っている。「歳月がヒロシマの悲劇の痛みを和らげることはできませんでした。このことは決して繰り返してはなりません。私たちは原子爆弾の犠牲者のことを決して忘れてはなりません」。アフリカのマラウイ共和国のビング・ワ・ムタリカ大統領は平成18(2006)年3月,「この記念公園は人類が憎しみによって自滅しようしていることを悲しく思い起こさせてくれるところです。人類がこのような戦争を決して再び交えないことを望みます。私たちは地球に平和を必要としているのです。愛,理解,忍耐,寛大さが必要なのです」と書き記した。メッセージは資料館のウェブサイトでも見ることができる。


おわりに
もとより,これらは広島訪問者の言葉の一部に過ぎない。海外からの訪問者は,それぞれの受け止め方で,“一人ひとりのヒロシマ”を母国に持ち帰っているのであろう。他方で,原爆投下から70年を経た今日もなお,人間の生命が無残に奪われる悲劇の現場が再生産されている。廃墟から立ち上がり,平和を希求する都市に生まれ変わった広島は,これからも“未完の平和”を問い続ける歴史的な使命を負っているのである。

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