当サイトを最適な状態で閲覧していただくにはブラウザのJavaScriptを有効にしてご利用下さい。
JavaScriptを無効のままご覧いただいた場合には一部機能がご利用頂けない場合や正しい情報を取得できない場合がございます。

国際平和拠点ひろしま

原爆の疫病(Atomic Plague)

昭和20(1945)年9月5日、英紙デイリーエクスプレス(Daily Express)の1面に掲載された記事をご存知だろうか。

1945年9月5日Daily Expressの一面(広島県立文書館所蔵(複製))

これは、ロンドンのデイリー・エキスプレス特派員であったウィルフレッド・バーチェット記者が被爆直後の昭和20(1945)年9月に広島に入り、書いた貴重な記事である。

記事の中では次のように掲載されている。(記事の一部のみ記載)

30日後の広島:生きながらえた人々が死んでゆく

原爆の疫病の被害者

私は世界への警告としてこれを記す。

医者は勤務中に倒れる。

毒ガスの恐怖:全員マスクを着用

最初の原子爆弾が都市を破壊し、世界に衝撃を与えてから30日後の広島で、無傷の人々も原因不明で死んでいる。それは、「原爆の疫病」としか説明できないほど奇怪で恐ろしいものであった。

広島は被爆した都市のようではない。まるで、蒸気ローラーの怪獣が乗り上げて、跡形もなく潰していったかのようである。世界への警告となるように願いながら出来る限り冷静に事実を記す。

 

日本語全文を見る。

原爆報道

原爆に関する報道は、原爆投下直後の広島市内の記者たちによって始まったが、電話・電信も途絶する中、情報が伝わらなかったり、甚大な被害の状況を本社が疑義に思ったりと幻の記事となったものも少なくなかった。

また、ウィルフレッド・バーチェット記者をはじめとする欧米の記者たちも広島に入り、広島の状況を伝えていった。

規制された原爆報道

終戦後、GHQ(連合国軍総司令部)の日本占領が本格化する中で、原爆報道は規制されていった。

「広島の復興経験を生かすために‐廃墟からの再生‐第1巻」では、原爆報道の規制について次のように掲載している。

 

さらにGHQは19日,「凡ゆる新聞紙の報道,論説,広告及び総ての出版物に適用する」プレス・コードを発する。新聞をはじめ出版,ラジオ放送,映画を検閲し,「占領軍に対して不信,又は怨恨を招く」内容を監視した。検閲は10月8日本格的にスタートする64)。
こうして「原爆報道」は封印されていくのである65)。

検閲は「占領国,実質的には単独占領国として政策を進めているアメリカの政治的利害によって」運用された66)。東京,大阪に拠点を置く全国紙は事前検閲,地方紙は事後検閲が原則だった。

https://hiroshimaforpeace.com/fukkoheiwakenkyu/vol1/1-46/

 

報道規制が全面的に解けるのは,昭和27(1952)年4月,日本の主権が回復されてからであった。

 

原爆報道の規制により原爆投下で何が起きたのか、どのような影響を受けたのか多くの人が知らされないまま暮らしていた中で、原爆投下直後のバーチェット記者による記事はとても貴重であったであろう。

 

核兵器廃絶に向けて行動するための最初のステップは「知る」ことだと考えている。この「知る」ということを、当時の日本そして世界の多くの人々はできなかった。この事実を知ることもまた事実を伝え行動していくことにつながるのではないだろうか。


参考

https://hiroshimaforpeace.com/fukkoheiwakenkyu/vol1/1-46/

https://hiroshimaforpeace.com/reconstruction/page-1-9/

 

このページに関連する情報

この記事に関連付けられているタグ