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国際平和拠点ひろしま

Hiroshima’s Reconstruction Vol.16広島の復興シリーズ Vol.16:高度経済成長期

1945年8月6日に広島に原子爆弾が投下されて75年。

原子爆弾により壊滅的な被害を受けた広島は,今日,国内外から「復興を成し遂げた街・平和を模索する都市」というアイデンティティが認知されています。

広島の復興の過程をとりまとめた「広島の復興経験を生かすために‐廃墟からの再生‐第1巻」を基に,広島の原子爆弾による被害からの復興を紹介します。

Vol.16では,「高度経済成長期」について紹介します。

高度経済成長期

昭和23~24(1948-1949)年にかけて,日本の産業経済は大きな転換期を迎えた。アメリカの方針転換により,しだいに自由主義的政策に重点が置かれるようになった。その一つとしてインフレの抑制を目的に金融・財政の急激な引き締めを実施したため,全国に深刻な不況がもたらされた。

しかし,昭和25(1950)年6月25日に勃発した朝鮮戦争に伴い特需ブームが起こった。この特需の影響は広島にとってもカンフル剤となった。広島をはじめとする日本の産業経済は,朝鮮戦争を機に,その後の高度成長を実現したのである。

広島県では,「消費県から生産県へ」と選挙公約の一つに掲げた大原博夫広島県知事のもと,「生産県構想」が発表された。これは,全国平均の80%弱にとどまっていた広島県の人口1人当たり県民所得を昭和31年度までに全国水準に引き上げることを目的としたもので,農林水産業の振興,商工業の振興,交通網の整備強化,治山治水の確立という4つの柱から構成されていた。

この構想のもと,人口1人当たり県民所得は,32年度に全国平均に達した。また,内閣府「県民経済計算年報(長期時系列)」によれば,すでに30年度には沖縄県を除く46都道府県の中で第8位(人口は第13位)に上昇した。

1950年代後半から60年代前半にかけては,広島市内に東洋工業淵崎工場,同宇品西工場,新明和工業広島工場,東京濾器広島工場などが立地した。そのほか県内では,バブコック日立呉事業所,日本紙業大竹工場,三菱レイヨン大竹事業所などの主要工場が相次いで操業を開始した。そして昭和40年には,福山市に日本鋼管福山製鉄所が立地した。

高度経済成長に突入した広島県製造業については,1)労働生産性(従業者1人当たり製造品出荷額等)の着実な上昇,2)中小・零細企業の厚みと広がりが特筆される。原爆投下により爆心地周辺の広島の零細工場は壊滅的な打撃を受けた。しかし,戦後少しずつ戻ってきたか,あるいは新規起業が増えてきたと推察されている。

広島県の製造品出荷額等の順位は昭和27年から53年まで第8~9位を維持し,43年には福岡県を抜いて中国・四国・九州で1位に躍進するなど広島県の産業が製造業に特化していた。人口1人当たりの県民所得の順位も順調に推移し,昭和50年度には第3位を記録したこともあった。

製造業が牽引力となり,戦後復興期から高度成長期の終わりまで広島県産業の強みであったことは言うまでもないが,そのウエイトの大きさが1980年代以降の産業構造転換の足かせとなったことも否定できない。


参考

https://hiroshimaforpeace.com/fukkoheiwakenkyu/vol1/1-36/

 

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